悟りプレイ

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捨てる、辞める、省くブログ

ゲームはクリアしなくていい

「クリア」はわかりやすい「満足するライン」

「魔王を倒して世界を平和にしましょう」でゲームが始まるから、魔王を倒して世界を平和にしたら目的達成でクリアだ。いやぁよかったよかった。

このときプレイヤーの脳内で何が起こっているかというと、目的を達成して満足している。元々魔王に生活を脅かされていたわけではなく、ゲームにお願いされただけだから。生活の質が向上するわけではなく、本当にただ満足しただけ。

つまりゲームをクリアするのは満足するためだ。満足するために、生活上特に必要ない「魔王を倒す作業」をやっている。魔王を倒すのは満足するための手段。

「クリア」前に終えてもいい

満足できるなら「魔王を倒す」でなくてもいい。最初の村の近くにあるモンスターの巣を破壊して村人に感謝された時点で満足してもいい。

そしたら満足したんだからその時点でそのゲームは終わり。わざわざ様々な困難を乗り越えて魔王まで倒す必要はない。これから魔王を倒す作業に費やすはずだった時間が救われる。

「クリア」で終わらなくてもいい

クリア前に満足してもいいし、逆にクリアで満足しなきゃいけないわけでもない。「クリア」は制作者側が設定した「満足するライン」でしかないから。従う道理はない。

ゲーム中に登場する全てのアイテムを集めるとか、主人公を最強に育てるとか、魔王そっちのけでそういう遊び方をしてもいい。

魔王軍は主人公に倒されるまで魔王城で待っていてくれる。アイテムを集めていたら魔王軍が攻めてきてゲームオーバー…なんてことは、特別にそういう設計をしたゲームでなければ起こらない。もちろん「クリア」で終えてもいいんだけど、「クリア」で終えなきゃいけないわけじゃない。

ゲーム以外でも自分で「満足するライン」を設定する

他人が設定した「満足するライン」に執着すると面倒が増える。近くのモンスターの巣を破壊するだけではダメだったり、魔王を倒したら終わってしまったり、それが現実でも起こる。

たとえば試験は合格点が存在する。合格点を超えないと不合格。試験なんだからそりゃそうなんだけど、合格点より下で満足する人が合格するには、合格点までよじ登らないといけない。そして合格点さえ超えれば何点でも「合格」で、それより上は求められない。

自分と試験の「満足するライン」が違うワケね。しっかり自分で「満足するライン」を設定できれば合格点に悩まされずに済む。

残さず食べなきゃ、最後まで読まなきゃ、これ以上は無駄だし…、こういう問題はどれも他人が設定した「満足するライン」によって引き起こされる。だから自分で設定できるようになると消滅する。もっとこう、好き勝手に生きていいと思うよ。

教科書と娯楽作品を分けると読書が楽しくなる

本を「教科書」と「娯楽作品」に分類する

本には「教科書」と「娯楽作品」の2種類があって、読むのに覚悟が必要な重い本が「教科書」で小説や漫画が「娯楽作品」。娯楽作品を教科書に分類してしまっていたのが本が重くなる原因。

教科書

説明書、学校の教科書などの「必要な正しいこと」が書かれている本。習得しなきゃいけないから、読むのには覚悟がいる。「読んだけど身に付かなかった」では困る。

娯楽作品

小説や漫画などの楽しむことを目的に読む本。「読者を楽しませること」が書かれている。楽しければそれでいいから、必要性や正確性は重視していない。「読んだけど3日で忘れた」も全然オッケー。

ほぼ全部「娯楽作品」に分類する

本屋でなんとなく目に留まった技術書・自己啓発本などは教科書ではなく娯楽作品に分類する。読んで楽しめればそれでいい。楽しめなければ捨てていい。

そうすると今まで重かった本が一気に軽くなる。書かれているのは「必要な正しいこと」ではなく「必要性や正確性を重視していない、読者を楽しませること」。だから読み終えたときに身に付いている必要はなく、つまらなければ最後まで読む必要もない。隅々まで読む必要も正確に読み解く必要もないし、わからない言葉や漢字も前後の文脈から適当に解釈していい。楽しめればいいんだよ楽しめれば。

もう技術書と難しい顔で睨めっこする必要はない。漫画みたいにゲラゲラ笑いながら読んでいいんだよ。

ブログの記事は娯楽作品

私はブログの記事を娯楽作品として書いている。この記事も「読書を楽しくする正しい方法の記事」ではなく「読者を楽しませる記事」。他の記事も全部そう。だから「この記事面白い!」や「この記事つまらない…」という付き合い方を想定していて「この記事のこの部分がおかしい!」みたいな付き合い方は違うと思う。

ファンタジー小説の世界で魔法陣からモンスターを召喚する話があっても、庭に魔法陣を描いて「モンスターを召喚できない!あの小説はおかしい!」なんて言わないよね。ブログの記事も自己啓発本も、「魔法陣からモンスターを召喚する」と同程度なんだよ。だから記事の内容を実践する場合は別途教科書で学習するか、魔法陣並の期待でやるんだよ。

娯楽作品なら軽い気持ちでたくさん読める

覚悟を決めて頑張って読んでも、読む量は少ない。その1冊を完璧に理解しても100点しか稼げない。一方で娯楽作品なら気軽に読めるから読む量が違う。1冊50点でも2冊読めば100点。3冊目からはもう数の暴力で勝る。

漫画の好きな台詞って割と覚えているよね。つまり娯楽作品でもそれなりに頭に残る。そういう戦法。「1冊から正解を学ぶ」ではなく「複数冊から少しずつ学ぶ」。

頼り切らないから、問題になりにくい

1冊あたりの質はそれほど大事じゃないから、内容に誤りがあっても大問題にはならない。これが全部正しいことを前提にした教科書だと、少しおかしいだけで大問題になる。

宗教にはまっちゃった人は、変な本を教科書にしちゃったわけ。変な1冊を教科書にしてしまって、他の本を読まないからああなる。複数の本を娯楽作品として読んでいれば、その中に1冊変なのが混ざっても「まぁそういう考え方もあるよね」くらいで済む。

何というかね、他人に正解を求めすぎなんだよ。みんな悩みながら間違えながら生きているんだし、そもそも私たちは猿から毛が抜けた程度の生き物なんだから、そう簡単に正解を提供できるワケがないんだよ。

それならいっそのこと、正解なんて求めずに気軽に楽しんじゃえばいい。それが読書を楽しむ方法だと思うよ。

いい大人になったら家計簿なんて卒業しようよ

あなたに家計簿は必要ない

家計簿は自身のお金を管理するためにつける。つまり家計簿が必要なのは「お金の管理が必要な人」。移動が必要な人が車を、計算が必要な人が電卓を使うように、お金の管理が必要な人が家計簿を使う。

ところでお金の管理って何だろう。私は「収入と支出の管理」だと思う。お金がなくなると困るから、収入より支出が多い状態はマズい。だから収入と支出を管理して、支出の方が多い状態に陥ったらすぐに察知できるようにするワケだ。

けど普通に働いて普通に暮らしている一般人は、既にお金が余るような生活・感覚が身に付いている。家計簿を見て「やべぇ今月マイナスだわ。買い物を見直そう」なんてことはやってないでしょ。基本的に毎月プラス。

毎月プラスなんだから、お金がなくなって困ることはない。この時点で「お金が減る傾向」を察知するために必要だったお金の管理は不要になる。ってことはお金の管理に必要だった家計簿も不要だよね。

いい大人になったら家計簿を卒業すべき理由

お金の管理は面倒な割に儲からないから。家計簿を付けたところで、疲れはするけど1円も儲からない。だから「お金が余るような生活・感覚」が身に付いたらさっさと家計簿は卒業すべきなわけ。ここで言う「いい大人」は「お金が余るような生活・感覚が身に付いている人」のこと。

家計簿を付けるのは面倒だから、家計簿を付けると達成感を感じてしまう。儲かりもしないのに。1日5分だか30分だか知らないけど、1円の得にもならない作業を頑張って達成感を感じている。そんなのだからあなたいつまでも貧乏なのよ…。お金にはしっかりしているかもしれないけど、時間や労働力に関しては無頓着なんだね。ダメじゃん。

簡単な「お金の管理」

実のところ家計簿なんて付けなくても、預金通帳をときどき見るだけでお金の管理はできる。それも毎日毎月ではなく、半年に1回とか、そのくらいの頻度でいい。前回見たときから預金残高が増えたか減ったか。比較対象から今までの間に事故的な出費があったか。この2点を見る。

増えていれば今までの生活でお金が増えるってこと。もし減っていても事故的な出費があったのなら、事故はそうそう起こらないはずだから、差し引いて考えられる。それでもまだ減っているなら、それでようやくマズいってことになる。

家計簿は高い頻度で付けるから、お金が減る傾向をすぐに察知できる利点がある。けど1日で減るお金の量って高が知れているじゃん。それをいちいち気にするのは疲れちゃう。

預金通帳は家計簿より期間が長いから、家計簿より大惨事になっている可能性がある。けど普通に生活していて半年で破滅ってことは多分ない。だからお金の管理の回数を減らして楽をするわけ。「毎日お金が余ること」ではなく「お金が余る傾向」が大切なんだから。

あなたが毎回お金を余らせているならお金の管理は必要ない。お金を管理しなきゃ心配という場合も預金通帳で足りる。だからさ、いい大人になったら家計簿なんて卒業しようよ。

同性愛者がキモいとかどうとか、そんなの放っておけばいいのにね

あなたは同性愛者? 異性愛者?

「同性愛者」は「同性を愛する人」。辞書にもそんなふうに書いてあるんじゃないかな。ただしここには落とし穴があって「異性を愛せない人」ではない。

あなたの愛する人が同性なら、同性愛者ではある。けど異性を愛せないかは不明。たまたま愛せる異性と出会わなかっただけかもしれない。

あなたの愛する人が異性でも、あなたが同性愛者でないとは言い切れない。たまたま愛せる同性と出会わなかっただけかもしれない。

人間って結構適当にできていて「~でしか~できない」ってことはほとんどない。「~でも~できちゃった(テヘッ)」ってことがよくある。「嫌いなはずのものを食べてみたら美味しかった」とかね。そもそも人間ってサルからちょっと毛が抜けた程度の生物だからね。機械ほどガチガチにできていないんだよ。

さて、前置きが長くなったけど本題に入るよ。

同性愛が世の中を良くする仕組み

まず始めに、私は「同性愛には賛成、というかどうでもいいじゃん放っておこうよ」という立場。賛成の理由は「同性愛カップルを放っておけば、勝手に世の中が良くなるから」。

人間というのは群れたがる生き物で、群れると大きな仕事ができるようになる。協力してマンモスを狩って発展してきたわけ。あれ一人だったら踏みつぶされて終わりだからね。現代でマンモスがどうとかってことはないけど、基本的に愛する人と一緒にいれば幸せに暮らせるよね。これは一人ではできない大きな仕事と言える。

で、幸せに暮らす人は社会に感謝する。「幸せに暮らせる社会は有り難い」ってね。そしてそれを維持する方向で頑張る。それで社会に対してプラスに作用する。別にボランティアとかそういうんじゃなくてね。問題を起こさず普通に働いて、普通に税金を払って、普通に買い物するってだけ。

逆に幸せに暮らせていない人は社会に感謝なんてしない。「私が不幸なのは社会が悪い!死ね!」「あーイライラする!事件を起こしてスッキリしよう!」ってなって社会を破壊する方を頑張る。これは当然社会にとってマイナス。

つまり幸せな人を量産した方が社会はよくなる。同性愛者は同性愛者同士勝手にくっついてくれれば、幸せな人が生産されて、それで社会がよくなる。逆に「同性愛を認めるべきではない!キモい!」ってやると、満たされない同性愛者が不幸になって、イライラして、事件を起こして社会を悪くする。

同性愛カップルが増えても、あなたは別に困らない

もしあなたの同性愛反対の理由が「自分に影響があるから」なら、それは多分違うから安心していいと思うよ。

あなたが同性愛者になる必要はない

同性愛者が求めているのは「自分たちの関係を認めてもらうこと」であって「あなたに同性愛者になってもらうこと」じゃない。

あなたは異性愛者のままでいいし、誰も愛さなくてもいい。私も「今からこの人を愛してください」なんて言われたら「え、ちょっと、えぇ?」ってなるよ。

同性愛を禁止しても、異性愛者の異性は増えない

「同性愛禁止法」的な何かができたとしても同性愛者は同性愛者のままだよ。好きなものはどうしようもない。ルールによって異性愛者に変換されるわけじゃないから隠れて同性愛するだけ。だから同性愛を禁止しても、あなたの「パートナーの選択肢」は増えない。

あー。一応「誰かに頼らないと生きていけない異性」は仕方なくあなたとくっつくかもしれないけど、それは恋愛とは違う何かだと思うよ。

あなたの前でいちゃつくわけじゃない

目の前で同性同士でいちゃつかれたら気分が悪くなると思う。抱きついたりキスしたり、ちょっと勘弁してよ気持ち悪い。

けどそれは同性だからではないよね。異性同士でいちゃつかれてもやっぱり気分が悪くなるよね。ホテルとかそういう見えないところでやってほしいよね。

で、多くのカップルは普通にわきまえてそういう見えないところでいちゃついているよね。同性異性関係なくさ。同性愛カップルも見えないところでいちゃつくだけだから、あなたの目の前でいちゃつくことはないと思うよ。だから安心して。

寛容な社会で事故に備える

最初に「「~でしか~できない」というわけではない」と話したとおり、私もあなたも、これからうっかり同性愛に目覚める可能性がある。そうしたとき、同性愛反対の社会だと辛い人生になる。それなら同性愛に寛容な社会の方がいいんじゃないかな。

現代社会は「障害を負ってもちょと不便なだけでまぁ生きていける社会」だから安心して危険な仕事にも挑める。これが「障害を負ったら完全に再起不能、もう死ぬしかない社会」だったら怖くて危険な仕事なんてできやしない。

これの恋愛版。「ちょっと踏み外しても即死するわけではない社会」の方が安心して暮らせると思うよ。将来何があるか分からないしね。

どうしても無理なら、逃げちゃおう

理屈じゃなくて異質な存在が無理! というのはあると思う。そりゃ仕方ない。そういう場合は「同性愛議論の場」からさっさと逃げるのがいいと思う。

同性愛軍の侵攻はこれからも進むだろうけど、そんなに猛スピードで世界中を支配するって事はないと思う。数十年は安泰じゃないかな。だから特に生活に影響しなければ、同性愛者なんてものがいること自体ぱーっと忘れて、自分の人生を楽しむのが得策。

同性愛議論が決着しても、ローンが消滅したり病気が治ったり年収が倍になったりするわけじゃない。身近に過激な同性愛者がいて死ぬほど困ってますってワケじゃないでしょ。当事者以外にとっては趣味の暇つぶしなんだよこの議論。わざわざ他人の家に上がり込んで騒がずにさ、自分の家で平和に暮らそうよ。

まとめ

自分が同性愛しなきゃいけないわけじゃないし、気にしないだけで勝手に幸せになって勝手に社会を良くしてくれる上に、万一自分が同性愛に目覚めたときも安心な社会になるというのに、なぜ熱心に反対するかな。

「まだ同性愛には厳しい現代社会で、我が子には異性愛者であってほしい」ならわかるんだけどさ。それなら「私も認められてほしいけど、厳しいと思う」であって「同性愛無理! キモい!」じゃないんだよなぁ。謎。同性愛に親でも殺されたのかな。

自分に直接大きな影響がないことは気にしない。そんな簡単なことで、心穏やかに暮らせるようになるよ。

Q.馬鹿に馬鹿と言って何が悪い A.効率

一目瞭然な事実をわざわざ言わなくても…

「砂糖は甘い」とか「This is a pen.」とか、今更誰も言わないんだよね。当たり前すぎて言う必要がないから。砂糖が辛かったら怖いし、目の前にあるペンがペンであることをわざわざ言われても「だからどうした」でしかない。

言葉は相手に情報を伝えるための手段だから、相手が既にその情報を持っているなら、わざわざ利用する必要はない。だから馬鹿にただ馬鹿と言うだけでは効率が悪い。「馬鹿と言う奴が馬鹿」ってそういうこと。言わなくていいことをわざわざ言う非効率的な馬鹿。

一目瞭然でない事実を指摘するから意味がある

詐欺師に騙されそうになっている人に「こいつ詐欺師だぞ!気をつけろ!」と言うのは、馬鹿に馬鹿と言うのと違い意味がある。詐欺師が詐欺師だとわかりづらいから。馬鹿にしても、わかりづらい馬鹿を指摘する場合には意味がある。「あぁなるほど。言われてみれば確かにそうだな。気付かなかったよ…」となる。

言葉は情報を持っていない人に情報を渡す道具。それさえ分かっていれば「もうそんなの持ってるから…」な無駄がなくなり、馬鹿をアピールせずに済むんじゃないかな。

わざわざ自分から気分を害さなくても…

馬鹿のことが馬鹿だとわかるのは、その馬鹿をしっかり見ているからだ。でも馬鹿って見てても気分悪くなるだけじゃん。馬鹿だし。

馬鹿がいるからと言って、あなたがその馬鹿を認識する必要はない。そっちは無視して、好きなものを見ていればいい。好きなアイドルの写真とか、面白い雑誌とか、そういうのを見ていれば幸せなんだよ。

世の中というテーブルには、色々な料理が並んでいる。中には嫌いな料理もあるし、好きな料理もある。でも胃の大きさには限界がある。じゃあ何を食べるかって「好きな料理」なんだよ。わざわざ「嫌いな料理」を食べて「あー不味いなぁクソが!」とか言っても、それこそ馬鹿なわけ。

やめようよそんな馬鹿馬鹿しいこと。嫌いな料理をわざわざ食べなきゃいけない場面なんて、現代じゃそうそうないと思うよ。好きなものを食べなよ。

下を見て安心するのはやめようよ

馬鹿のことをわざわざ見る動機の1つに「自分より馬鹿な奴を見て安心するため」というのがある。その安心って錯覚なんだけどね。

馬鹿がテストで0点を取っても、あなたのテストの点数は50点から100点に上がるわけじゃないんだよね。あなたの頭は、馬鹿がいることに関係なく50点。勉強しなきゃその点数は上がらない。

馬鹿はそのうち警察沙汰でも起こして自滅して消えてくれると思うよ。そんなの気にせず勉強でもしていようよ。何なら昼寝でも。馬鹿を見ているよりは有益だろうし。

評価なんて気にしていても評価は上がらない

評価をいくら確認しても評価は上がらない

10分に1回評価を確認する場合と、1週間後に1回確認するだけの場合とで、評価が変わるわけではない。同じ作品だから、確認回数に関係なく同じ評価に落ち着いているはず。つまり評価に影響しない無駄な作業に時間を割いているわけ。

何もその時間を全て次の作品製作にあてろなんて意識の高いことは言わないけど、クソの役にも立たない作業を繰り返して得られるのが疲労だけなら、寝たりゲームでもしていた方がマシだよ。疲れが取れたり楽しめるから。

これがもし「この時間帯に投稿するとこうなってこうなるのか」「こういう描き方だと評判が悪いのか」と分析して次に活かせるならいいんだよ。それは練習と同じで実力に繋がるから。けど「なんでこんなに評価されないんだよ…」って嘆いているだけじゃ、いつまで経っても状況は変わらないよ。

「評価が低い」の次に「じゃあどうするか」がほしい。

評価は自動で上がっていくから気にするな

多少の向上心を持って続けていれば、頭に致命的な障害でもなければ上達していく。その上達に伴い評価も上がっていく。

「評価が低い現状」は実力を付けることでしか改善できない。もう1つ「高評価を付けてほしいとお願いする」という方法もあるけど、あなたがほしいのはお願いで買ったお世辞じゃないでしょ。だから「評価が低いのが気に入らないから実力を付けよう」となる。

そうとわかれば後は簡単だ。実力を付ければいい。評価を気にしなくても、そのうち評価されるようになっていく。「評価が低い現状」なんて今のことでしかない、いずれ改善されるものなんだから、どーでもいいんだよ。

ジャンルとか関係ないよ

旬のジャンルを扱えば表面的な評価は上がる。逆に人気のないジャンルで活動してもそんなに評価は上がらない。それに実力の有無は関係ない。俺が評価されないのはジャンルが悪いんだ!ってね。

けど実力があればジャンルの規模に関係なく、そのジャンルの中で取り得る高評価が付く。実力がないとそのジャンルなりの低評価になる。ここに実力の差が出てくる。

だからジャンルが良いとか悪いとか言っても仕方ない。とりあえず作品作ろうよ。実力付けようよ。

作品作りに集中できる環境を作ってくれたGoogleは、やっぱりすごいサービスだと思う

作者に宣伝作業は重すぎる

作者がインターネット上に作品を投稿するのは「見てもらうため」だ。見てもらって、褒められたり、仕事に繋がったり、作品を買ってもらったり、広告収入を得たりする。とにもかくにも見てもらわなければ始まらない。

けど作品をインターネットで見られるように投稿したところで、それだけではほとんど見てもらえない。客がその作品を発見できないからだ。「このURLに素敵な絵がある」という事実を知らなければ、客はそのURLにアクセスできない。

このためGoogleが登場してここまで高精度化するまでは、作者は各自で自身の作品を宣伝しなければならなかった。ある人はホームページをディレクトリ型検索エンジンに登録し、またある人は他のホームページ管理者にリンクを張ってもらうようお願いして回ったり、ブログのコメント欄に宣伝も兼ねた挨拶回りをしていた。

しかしこういう集客作業をしているとき、作者は作品を作る作業ができていない。練習さえもできなかった。いくら挨拶回りをしたところで絵は上手くならないのだ。非常に不毛で「俺…宣伝ばかりで絵描いてないじゃん…」と疲れ果ててしまっていた。

Googleが作ってくれた「作品作りに集中できる環境」

一方でGoogleは検索客を満足させたい一心で検索結果の高精度化を進めていった。自動で世界中の投稿された作品を収集し、検索客が求めているものを上位に表示できるよう作品評価処理を改良して、今ではひらがなで検索するだけで適切な漢字・カタカナに変換して満足できる検索結果を返してくれるまでになっている。今では何でもかんでも「とりあえずググる」だ。

その結果、作者は質の高い作品を投稿するだけで自動的に集客できるようになった。質が高ければGoogleが検索結果上位に表示してくれて、そこから客が流れ込んでくる。

検索結果から流れてくる客は「その作者の作品を求めている客」だ。知りたい・見たいと思って検索ワードを書いて検索結果ページを開いた客だから、間違いなくその作者の作品を求めている。だからその辺の広告スペースに広告を出すより遙かにクリック率が高い。

つまり作者は集客作業から解放されたわけだ。ひたすら質の高い作品を追求していれば、あとはGoogleが自動で「その作者の作品を求めている客」を運んできてくれる。もう挨拶回りなんてしなくていい。私が集客を考えずに記事を書いても、それを求めている人にしっかり紹介してくれる。すごく助かっている。本当にありがとうGoogle。

作者が勝手に検索結果の質を高めてくれる

Googleは自動で作品を評価しているから、その作品評価処理だって完全ではないと思う。際どい質の判断はまだ失敗することもあるだろうよ。

そこを今度は作者が補完する。作品作りに集中することで、作者はものすごく質の高い作品を投稿できるようになる。100と101の比較は間違えるGoogleも、100と200ではほぼ間違いなく200の方が質が高いと判断できる。こうして作者は検索結果の質を高めるのに貢献している。

そういう何というかな、Googleへの恩返しみたいなものが、誰も意識しないうちに行われているんじゃないかってまぁ妄想だけど。

Googleの様々な作者サポート

Googleは「集客作業からの解放」の他にも様々な作者サポートを提供している。以前であれば図書館や書店、現地に行って探さなければならなかった資料を、今では椅子に座ったまま閲覧できる。

外国語の資料も翻訳を通して理解できちゃうし、部屋や机に散らばっていた資料は全部パソコン1台にまとまっって作業スペースが広くなった。製作道具の不調までGoogleで直し方を検索している。

私たち作者はGoogleから多大なサポートを受けて、10年20年前より遙かに楽に作品作りに集中できるようになっている。普段意識することもないけど、これってとても有り難いことだと思うよ。