悟りプレイ

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「性癖」は「性的嗜好」という意味の言葉ではないんだってさ

「正しい日本語」に何の意味がある?

性癖は正しくは「性質上の偏り、癖」といった意味なんだそうだ。「性の癖」じゃなくて「性質上の癖」。でも多分「私には幼女に興奮する性癖があります」と言っても相手には「この人には幼女に興奮する性的嗜好があるんだな」と伝わる。

仮に「やーい性癖の意味間違ってやんのバーカw」という反応を返されても、それは私の伝えたいことを理解した上で日本語の誤りを指摘しているだけ。伝えたいことはしっかり伝わっている。

私が発した言葉によって、相手に私が伝えたいことが無事に伝わったわけだ。正しい日本語じゃないのに。言葉は伝えたいことを相手に伝えるための道具だ。使用目的は「伝えたいことを相手に伝えるため」。それだけなら正しくない日本語でも達成できてしまったよ?

ハサミでなくても紙を切れるのに「紙を切るために使う道具はハサミでなければならない」と言っているような、「正しい日本語」にはそういう無理矢理感がある。

「正しい日本語」の価値

「ハサミを使わなくてもいいじゃん」とは言ったけど、紙を切るためにハサミを使っちゃいけないわけじゃない。そしてハサミにはハサミの価値がある。カッターより比較的安全で、手で千切るよりきれいに切れる。

「正しい日本語」にもそういう価値があれば選択肢に入る。わざわざ辞書で正しい意味を学習して、注意して使用するほどの価値があれば。

私の考える「正しい日本語」の価値は「伝わりやすさ」だと思う。正しい日本語なら、正しくない日本語を使う場合より相手に伝えやすい。だから正しい日本語を使う。

で、「伝わりやすさ」という観点で「性癖」を考えるとどうだろう。十分な確率で伝えたいことを伝えられる、正しい日本語並の実力を持った言葉なんじゃないかな。受験していないから合格していないだけの、十分な実力を持っている人みたいな。

まとめ

辞書は「正しい日本語」としての意味を掲載している本。けどそもそも言葉は伝えたいことを伝えるための道具で、伝わればそれが正義だ。何も「正しい日本語」でなければならないってワケじゃない。

だからさ、辞書にどう書かれているかとか、正しい日本語かどうかとか、そういうのを気にする前に「目の前の相手に確実に伝わるかどうか」を意識した方がいいと思うよ。

フォローを解除された原因は「フォローを返さなかったから」じゃないと思うよ

原因は本当に「フォローを返さなかったから」か?

相手が「フォローを返してくれなかったからフォローを解除しました」と言ってくれたなら、原因は「フォローを返さなかったから」なんだろう。けど多分何も言われていないよね。無言でフォローを解除されることの方が圧倒的に多いはず。

そうすると、フォローを解除された原因は「不明」のはずなんだよね。何か知らないけど、フォローを解除された。「フォローを返さなかったから」と言い切れる合理的な証拠ってないでしょ。

どこから湧いたんだろうね。「フォローを返さなかったから」って。

単純に「あなたがつまらなかったから」では?

フォローを返す返さないの前に「そもそもフォローって何だっけ」と考えると、読者登録だ。相手の新作の投稿をすぐに察知したいから、読者登録する。それがフォロー。

新作の投稿をすぐに察知したいからフォローするわけ。あなたの作品がつまらなかったらフォローしたくならない。あなたもクソつまらない投稿を連発するアカウントなんてフォローしたくないでしょ。

けどぱっと見で「面白い」とわかる人はそういない。食べ物が食べてみないとわからないのと同じで、フォローしてしばらく並べてみないと、その人が面白いかどうかはわからない。

それに加えて人は自分も相手も徐々に変わっていくものだから、いつまでも「面白い人」が続くとは限らない。あなたが野球に興味を持っているから、野球選手が「面白い人」に見える。あなたが野球に飽きたら同じ野球選手でも「つまらない人」だ。そして野球選手が野球に飽きて釣り人に転身しても、やっぱり「つまらない人」になる。

そんなこんなで、フォローは「とりあえずフォローしてみて、面白い人である間は継続し、つまらない人だとわかったら解除する」なわけね。「つまらなかったからフォローを解除された」ってすごく理にかなっていると思わない? こっちの説にも確たる証拠はないけどさ。

「フォローを返さなかったから」はどこから湧いたのか

「私はつまらない人間だ」と「相手はフォロー返しを期待してフォローしまくる気違いだった」なら、どちらの方が受け入れやすいか。それだけのことじゃないかな。

顔も知らないどこかの誰かを気違いということにすれば、気持ちよく今回のフォロー解除を説明できる。人間は正しいことよりも信じたいものを信じるんだよ。

で、「フォローを返さなかったらフォローを解除するアカウント」もいないわけじゃない。ときどき変なアカウントがフォローしてきて、放っておいたらいつの間にかフォロワーから消えているってこともある。だから今回もそうなんだろう、そうであってくれるとうれしいーと。

「つまらない人」は「無価値な人」ではない

けどさ、「自分がつまらない人間であること」って別に「フォローを返さなかったから」とかいう原因まで妄想して拒絶しなきゃいけないほど悪いことじゃないんだよね。

あなたにとって釣り人になったあの元野球選手は「つまらない人」だけど、釣りが趣味の人たちからしたら「面白い人」だから。釣りが趣味の人から見たら「つまらない人が面白い人になった」。

面白い人かつまらない人かなんて評価は相手の数だけあるんだから、いちいち気にしていたら気が病んじゃうよ。「私はつまらない人なんだろうね、あなたにとってはね」でいいんだよ。私を楽しめない相手が悪い。どこに住んでいるか、そもそも日本に住んでいるかもわからないどこかの誰かに「つまらない人」と評価されたって、だから何だって話だよ。

他人からの「面白い」「つまらない」なんて気にしなくていいんだよ。好き勝手言っているだけなんだから。そんなの気にせずあなたも好き勝手言っていればいいんだよ。

ゲームはクリアしなくていい

「クリア」はわかりやすい「満足するライン」

「魔王を倒して世界を平和にしましょう」でゲームが始まるから、魔王を倒して世界を平和にしたら目的達成でクリアだ。いやぁよかったよかった。

このときプレイヤーの脳内で何が起こっているかというと、目的を達成して満足している。元々魔王に生活を脅かされていたわけではなく、ゲームにお願いされただけだから。生活の質が向上するわけではなく、本当にただ満足しただけ。

つまりゲームをクリアするのは満足するためだ。満足するために、生活上特に必要ない「魔王を倒す作業」をやっている。魔王を倒すのは満足するための手段。

「クリア」前に終えてもいい

満足できるなら「魔王を倒す」でなくてもいい。最初の村の近くにあるモンスターの巣を破壊して村人に感謝された時点で満足してもいい。

そしたら満足したんだからその時点でそのゲームは終わり。わざわざ様々な困難を乗り越えて魔王まで倒す必要はない。これから魔王を倒す作業に費やすはずだった時間が救われる。

「クリア」で終わらなくてもいい

クリア前に満足してもいいし、逆にクリアで満足しなきゃいけないわけでもない。「クリア」は制作者側が設定した「満足するライン」でしかないから。従う道理はない。

ゲーム中に登場する全てのアイテムを集めるとか、主人公を最強に育てるとか、魔王そっちのけでそういう遊び方をしてもいい。

魔王軍は主人公に倒されるまで魔王城で待っていてくれる。アイテムを集めていたら魔王軍が攻めてきてゲームオーバー…なんてことは、特別にそういう設計をしたゲームでなければ起こらない。もちろん「クリア」で終えてもいいんだけど、「クリア」で終えなきゃいけないわけじゃない。

ゲーム以外でも自分で「満足するライン」を設定する

他人が設定した「満足するライン」に執着すると面倒が増える。近くのモンスターの巣を破壊するだけではダメだったり、魔王を倒したら終わってしまったり、それが現実でも起こる。

たとえば試験は合格点が存在する。合格点を超えないと不合格。試験なんだからそりゃそうなんだけど、合格点より下で満足する人が合格するには、合格点までよじ登らないといけない。そして合格点さえ超えれば何点でも「合格」で、それより上は求められない。

自分と試験の「満足するライン」が違うワケね。しっかり自分で「満足するライン」を設定できれば合格点に悩まされずに済む。

残さず食べなきゃ、最後まで読まなきゃ、これ以上は無駄だし…、こういう問題はどれも他人が設定した「満足するライン」によって引き起こされる。だから自分で設定できるようになると消滅する。もっとこう、好き勝手に生きていいと思うよ。

「クレジットカードが使えない店」を「クレジットカードが使える店」にする方法

困っていることを店側に伝える

「クレジットカードが使えるかを自分で確認してから使う」という使い方では「クレジットカードが使える店」は増えない。「クレジットカードが使えない店」の店員から見たらあなたは「クレジットカードが使えずに困る客」ではなく「現金払いの客」だから。

だから「使えるかどうかを確認せずにクレジットカード払いをしようとする」という使い方に切り替える。こうすると

あなた「クレジットカードでお願いします」
店員「ウチはカード使えないんですよ」
あなた「えぇ…面倒くさいなぁ…」

こういうやりとりが発生するようになる。店員の目に「クレジットカードが使えずに困る客」が映る。あなた一人が困っても効果は小さいけど、多くの客が同じように困れば、店員は「クレジットカードが使えれば客が喜ぶのではないか」と考える。おめでとう! 「クレジットカードが使える店」になる可能性が生まれたよ!

「お客様の声」などのアンケート用紙に「クレジットカードを使えるようにしてほしい」と書いてもいいんだけどさ。多分「困っている客」を直接店員に見せた方が、文字で伝えるよりも強く伝えられる…かな。

1人1店1回まで

この方法は「多数の客が困っていることを店に伝えてその気にさせる」というもの。だからあなた1人が同じ店で毎回クレジットカードを使おうとしても効果はない。これではあなたはただの迷惑な客であり、店はクレジットカード導入ではなくあなたを店から排除することを検討すると思う。

だから2回目からはさっさと現金払いで済ませる。そのうち「使えるようになりましたよ」と言ってもらえるかもよ。

あと店員が直接「クレジットカード導入を検討できる偉い人」に意見を言えそうにない、全国チェーンの店などでは多分やるだけ無駄だからこういう場合も現金払いで。そういう規模の店なら大体クレジットカード払い可能だろうけど。

教科書と娯楽作品を分けると読書が楽しくなる

本を「教科書」と「娯楽作品」に分類する

本には「教科書」と「娯楽作品」の2種類があって、読むのに覚悟が必要な重い本が「教科書」で小説や漫画が「娯楽作品」。娯楽作品を教科書に分類してしまっていたのが本が重くなる原因。

教科書

説明書、学校の教科書などの「必要な正しいこと」が書かれている本。習得しなきゃいけないから、読むのには覚悟がいる。「読んだけど身に付かなかった」では困る。

娯楽作品

小説や漫画などの楽しむことを目的に読む本。「読者を楽しませること」が書かれている。楽しければそれでいいから、必要性や正確性は重視していない。「読んだけど3日で忘れた」も全然オッケー。

ほぼ全部「娯楽作品」に分類する

本屋でなんとなく目に留まった技術書・自己啓発本などは教科書ではなく娯楽作品に分類する。読んで楽しめればそれでいい。楽しめなければ捨てていい。

そうすると今まで重かった本が一気に軽くなる。書かれているのは「必要な正しいこと」ではなく「必要性や正確性を重視していない、読者を楽しませること」。だから読み終えたときに身に付いている必要はなく、つまらなければ最後まで読む必要もない。隅々まで読む必要も正確に読み解く必要もないし、わからない言葉や漢字も前後の文脈から適当に解釈していい。楽しめればいいんだよ楽しめれば。

もう技術書と難しい顔で睨めっこする必要はない。漫画みたいにゲラゲラ笑いながら読んでいいんだよ。

ブログの記事は娯楽作品

私はブログの記事を娯楽作品として書いている。この記事も「読書を楽しくする正しい方法の記事」ではなく「読者を楽しませる記事」。他の記事も全部そう。だから「この記事面白い!」や「この記事つまらない…」という付き合い方を想定していて「この記事のこの部分がおかしい!」みたいな付き合い方は違うと思う。

ファンタジー小説の世界で魔法陣からモンスターを召喚する話があっても、庭に魔法陣を描いて「モンスターを召喚できない!あの小説はおかしい!」なんて言わないよね。ブログの記事も自己啓発本も、「魔法陣からモンスターを召喚する」と同程度なんだよ。だから記事の内容を実践する場合は別途教科書で学習するか、魔法陣並の期待でやるんだよ。

娯楽作品なら軽い気持ちでたくさん読める

覚悟を決めて頑張って読んでも、読む量は少ない。その1冊を完璧に理解しても100点しか稼げない。一方で娯楽作品なら気軽に読めるから読む量が違う。1冊50点でも2冊読めば100点。3冊目からはもう数の暴力で勝る。

漫画の好きな台詞って割と覚えているよね。つまり娯楽作品でもそれなりに頭に残る。そういう戦法。「1冊から正解を学ぶ」ではなく「複数冊から少しずつ学ぶ」。

頼り切らないから、問題になりにくい

1冊あたりの質はそれほど大事じゃないから、内容に誤りがあっても大問題にはならない。これが全部正しいことを前提にした教科書だと、少しおかしいだけで大問題になる。

宗教にはまっちゃった人は、変な本を教科書にしちゃったわけ。変な1冊を教科書にしてしまって、他の本を読まないからああなる。複数の本を娯楽作品として読んでいれば、その中に1冊変なのが混ざっても「まぁそういう考え方もあるよね」くらいで済む。

何というかね、他人に正解を求めすぎなんだよ。みんな悩みながら間違えながら生きているんだし、そもそも私たちは猿から毛が抜けた程度の生き物なんだから、そう簡単に正解を提供できるワケがないんだよ。

それならいっそのこと、正解なんて求めずに気軽に楽しんじゃえばいい。それが読書を楽しむ方法だと思うよ。

いい大人になったら家計簿なんて卒業しようよ

あなたに家計簿は必要ない

家計簿は自身のお金を管理するためにつける。つまり家計簿が必要なのは「お金の管理が必要な人」。移動が必要な人が車を、計算が必要な人が電卓を使うように、お金の管理が必要な人が家計簿を使う。

ところでお金の管理って何だろう。私は「収入と支出の管理」だと思う。お金がなくなると困るから、収入より支出が多い状態はマズい。だから収入と支出を管理して、支出の方が多い状態に陥ったらすぐに察知できるようにするワケだ。

けど普通に働いて普通に暮らしている一般人は、既にお金が余るような生活・感覚が身に付いている。家計簿を見て「やべぇ今月マイナスだわ。買い物を見直そう」なんてことはやってないでしょ。基本的に毎月プラス。

毎月プラスなんだから、お金がなくなって困ることはない。この時点で「お金が減る傾向」を察知するために必要だったお金の管理は不要になる。ってことはお金の管理に必要だった家計簿も不要だよね。

いい大人になったら家計簿を卒業すべき理由

お金の管理は面倒な割に儲からないから。家計簿を付けたところで、疲れはするけど1円も儲からない。だから「お金が余るような生活・感覚」が身に付いたらさっさと家計簿は卒業すべきなわけ。ここで言う「いい大人」は「お金が余るような生活・感覚が身に付いている人」のこと。

家計簿を付けるのは面倒だから、家計簿を付けると達成感を感じてしまう。儲かりもしないのに。1日5分だか30分だか知らないけど、1円の得にもならない作業を頑張って達成感を感じている。そんなのだからあなたいつまでも貧乏なのよ…。お金にはしっかりしているかもしれないけど、時間や労働力に関しては無頓着なんだね。ダメじゃん。

簡単な「お金の管理」

実のところ家計簿なんて付けなくても、預金通帳をときどき見るだけでお金の管理はできる。それも毎日毎月ではなく、半年に1回とか、そのくらいの頻度でいい。前回見たときから預金残高が増えたか減ったか。比較対象から今までの間に事故的な出費があったか。この2点を見る。

増えていれば今までの生活でお金が増えるってこと。もし減っていても事故的な出費があったのなら、事故はそうそう起こらないはずだから、差し引いて考えられる。それでもまだ減っているなら、それでようやくマズいってことになる。

家計簿は高い頻度で付けるから、お金が減る傾向をすぐに察知できる利点がある。けど1日で減るお金の量って高が知れているじゃん。それをいちいち気にするのは疲れちゃう。

預金通帳は家計簿より期間が長いから、家計簿より大惨事になっている可能性がある。けど普通に生活していて半年で破滅ってことは多分ない。だからお金の管理の回数を減らして楽をするわけ。「毎日お金が余ること」ではなく「お金が余る傾向」が大切なんだから。

あなたが毎回お金を余らせているならお金の管理は必要ない。お金を管理しなきゃ心配という場合も預金通帳で足りる。だからさ、いい大人になったら家計簿なんて卒業しようよ。

同性愛者がキモいとかどうとか、そんなの放っておけばいいのにね

あなたは同性愛者? 異性愛者?

「同性愛者」は「同性を愛する人」。辞書にもそんなふうに書いてあるんじゃないかな。ただしここには落とし穴があって「異性を愛せない人」ではない。

あなたの愛する人が同性なら、同性愛者ではある。けど異性を愛せないかは不明。たまたま愛せる異性と出会わなかっただけかもしれない。

あなたの愛する人が異性でも、あなたが同性愛者でないとは言い切れない。たまたま愛せる同性と出会わなかっただけかもしれない。

人間って結構適当にできていて「~でしか~できない」ってことはほとんどない。「~でも~できちゃった(テヘッ)」ってことがよくある。「嫌いなはずのものを食べてみたら美味しかった」とかね。そもそも人間ってサルからちょっと毛が抜けた程度の生物だからね。機械ほどガチガチにできていないんだよ。

さて、前置きが長くなったけど本題に入るよ。

同性愛が世の中を良くする仕組み

まず始めに、私は「同性愛には賛成、というかどうでもいいじゃん放っておこうよ」という立場。賛成の理由は「同性愛カップルを放っておけば、勝手に世の中が良くなるから」。

人間というのは群れたがる生き物で、群れると大きな仕事ができるようになる。協力してマンモスを狩って発展してきたわけ。あれ一人だったら踏みつぶされて終わりだからね。現代でマンモスがどうとかってことはないけど、基本的に愛する人と一緒にいれば幸せに暮らせるよね。これは一人ではできない大きな仕事と言える。

で、幸せに暮らす人は社会に感謝する。「幸せに暮らせる社会は有り難い」ってね。そしてそれを維持する方向で頑張る。それで社会に対してプラスに作用する。別にボランティアとかそういうんじゃなくてね。問題を起こさず普通に働いて、普通に税金を払って、普通に買い物するってだけ。

逆に幸せに暮らせていない人は社会に感謝なんてしない。「私が不幸なのは社会が悪い!死ね!」「あーイライラする!事件を起こしてスッキリしよう!」ってなって社会を破壊する方を頑張る。これは当然社会にとってマイナス。

つまり幸せな人を量産した方が社会はよくなる。同性愛者は同性愛者同士勝手にくっついてくれれば、幸せな人が生産されて、それで社会がよくなる。逆に「同性愛を認めるべきではない!キモい!」ってやると、満たされない同性愛者が不幸になって、イライラして、事件を起こして社会を悪くする。

同性愛カップルが増えても、あなたは別に困らない

もしあなたの同性愛反対の理由が「自分に影響があるから」なら、それは多分違うから安心していいと思うよ。

あなたが同性愛者になる必要はない

同性愛者が求めているのは「自分たちの関係を認めてもらうこと」であって「あなたに同性愛者になってもらうこと」じゃない。

あなたは異性愛者のままでいいし、誰も愛さなくてもいい。私も「今からこの人を愛してください」なんて言われたら「え、ちょっと、えぇ?」ってなるよ。

同性愛を禁止しても、異性愛者の異性は増えない

「同性愛禁止法」的な何かができたとしても同性愛者は同性愛者のままだよ。好きなものはどうしようもない。ルールによって異性愛者に変換されるわけじゃないから隠れて同性愛するだけ。だから同性愛を禁止しても、あなたの「パートナーの選択肢」は増えない。

あー。一応「誰かに頼らないと生きていけない異性」は仕方なくあなたとくっつくかもしれないけど、それは恋愛とは違う何かだと思うよ。

あなたの前でいちゃつくわけじゃない

目の前で同性同士でいちゃつかれたら気分が悪くなると思う。抱きついたりキスしたり、ちょっと勘弁してよ気持ち悪い。

けどそれは同性だからではないよね。異性同士でいちゃつかれてもやっぱり気分が悪くなるよね。ホテルとかそういう見えないところでやってほしいよね。

で、多くのカップルは普通にわきまえてそういう見えないところでいちゃついているよね。同性異性関係なくさ。同性愛カップルも見えないところでいちゃつくだけだから、あなたの目の前でいちゃつくことはないと思うよ。だから安心して。

寛容な社会で事故に備える

最初に「「~でしか~できない」というわけではない」と話したとおり、私もあなたも、これからうっかり同性愛に目覚める可能性がある。そうしたとき、同性愛反対の社会だと辛い人生になる。それなら同性愛に寛容な社会の方がいいんじゃないかな。

現代社会は「障害を負ってもちょと不便なだけでまぁ生きていける社会」だから安心して危険な仕事にも挑める。これが「障害を負ったら完全に再起不能、もう死ぬしかない社会」だったら怖くて危険な仕事なんてできやしない。

これの恋愛版。「ちょっと踏み外しても即死するわけではない社会」の方が安心して暮らせると思うよ。将来何があるか分からないしね。

どうしても無理なら、逃げちゃおう

理屈じゃなくて異質な存在が無理! というのはあると思う。そりゃ仕方ない。そういう場合は「同性愛議論の場」からさっさと逃げるのがいいと思う。

同性愛軍の侵攻はこれからも進むだろうけど、そんなに猛スピードで世界中を支配するって事はないと思う。数十年は安泰じゃないかな。だから特に生活に影響しなければ、同性愛者なんてものがいること自体ぱーっと忘れて、自分の人生を楽しむのが得策。

同性愛議論が決着しても、ローンが消滅したり病気が治ったり年収が倍になったりするわけじゃない。身近に過激な同性愛者がいて死ぬほど困ってますってワケじゃないでしょ。当事者以外にとっては趣味の暇つぶしなんだよこの議論。わざわざ他人の家に上がり込んで騒がずにさ、自分の家で平和に暮らそうよ。

まとめ

自分が同性愛しなきゃいけないわけじゃないし、気にしないだけで勝手に幸せになって勝手に社会を良くしてくれる上に、万一自分が同性愛に目覚めたときも安心な社会になるというのに、なぜ熱心に反対するかな。

「まだ同性愛には厳しい現代社会で、我が子には異性愛者であってほしい」ならわかるんだけどさ。それなら「私も認められてほしいけど、厳しいと思う」であって「同性愛無理! キモい!」じゃないんだよなぁ。謎。同性愛に親でも殺されたのかな。

自分に直接大きな影響がないことは気にしない。そんな簡単なことで、心穏やかに暮らせるようになるよ。